はじめに
邪馬台国の所在地を巡る邪馬台国論争。
古くは江戸時代から、2つの有力説――畿内説と九州説――が対峙してきた。
だが近年、奈良県桜井市の箸墓古墳や纏向遺跡の発掘調査が進むにつれて、考古学的には畿内説が有力となりつつある。
国立歴史民俗博物館副館長、大阪府立近つ飛鳥博物館館長などを歴任した考古学者・白石太一郎は、2026年に再版された『古墳とヤマト政権 古代国家はいかに形成されたか』の「補論 考古学からみた邪馬台国と初期ヤマト政権」において、「初期の古墳のあり方や分布の状況から、邪馬台国の時代である三世紀の前半から中葉には、政治の中心は近畿地方中部の畿内と呼ばれる地域、それも大和にあったとしか考えられないことがはっきりしてきました」と述べている*1。
より慎重な立場の考古学者・松木武彦は、遺作となった講談社現代新書『古墳時代の歴史』において、「箸墓(古墳)が卑弥呼の墓の可能性が高いという判断をもって、それが存在する奈良盆地を邪馬台国と結論するのは循環論法にすぎない」としながらも、「考古学的な状況からは、奈良盆地が邪馬台国であったとするほうが、今のところはすっきりする」と述べている*2。
では、邪馬台国論争のもう一方のアプローチ、文献史学的にはどうなのだろうか。
実はこちらについても、畿内説に与する論考が発表されている。
本記事では、邪馬台国畿内説の傍証となる書籍・論文を2点紹介したい。

目次
- はじめに
- 渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』
- 桃崎有一郎「邪馬台国畿内説の新証左」
- おわりに
- 参考文献
*1:白石(2026: 187)。なお、2026年に吉川弘文館の「読みなおす日本史」シリーズで再版された『古墳とヤマト政権』は、1999年に出版された文春新書が底本となっており、再版に際してフォーラムの講演録をもとにした「補論」が付け加えられたという経緯がある。
*2:松木(2025: 96)。


















