自分の人生を振り返ると、傍らに川が流れていた。
川とのふれあいについて、記憶の源流から河口まで辿ってみたい。
目次
隅田川
自分の記憶の源流を辿ると、隅田川に至る。4歳の頃、東京・月島の思い出として脳内を伏流している。
散歩が好きな子供だった。月島のすぐそばを流れる隅田川沿いの遊歩道も格好の散歩道だった(写真1)。
遊歩道は川が増水した時や満潮時に一部分が冠水する仕組みになっていた。普段歩いている道が通行できなくなる光景は、幼心に不思議に映った。
東京湾に程近い隅田川は、澱んだ磯の臭いをまといながら、濁りの中を半透明のミズクラゲが漂っていた。
月島を舞台にした小説『4TEEN』(石田衣良 著)を、小学生の時に読んだ。作中で「隅田川に浮かぶコンドーム」をクラゲに見立てた描写が出てきた瞬間、幼稚園児の時の記憶が突如蘇ってきた。思い出される隅田川の思い出は断片的ながらも、どれも肌触りの良い、柔らかな感情が湧き上がってくる。
鶴見川
父の転勤に伴い、横浜市鶴見区に転居した。鶴見区には、その名の通り鶴見川が流れていた。
だが、この川にまつわる日々の思い出はほとんどない。当時住んでいた社宅から5歳児の足で散歩するには距離があった。
では何故、鶴見川の記憶があるのか。それは、ペットとして飼っていたアメリカザリガニを放流した川だからだ。
夏祭りの屋台でザリガニを手に入れた。社宅のベランダにプラスチックケースを置いて飼育していた。ある日、ザリガニがケースをよじ登って、隣の家のベランダまで脱走しまい、その家の小学生のお兄さんに捕まえてもらった。たくましい生命力を体感した。
再び父の転勤が決まった。今度は神奈川から広島へ引っ越さなければならない。ザリガニは連れていけない。
結局、最寄りの鶴見川に逃がすことになった*1。ケースから這い出てきたザリガニは、ゆったりとした川の流れに紛れていった。
手城川・芦田川
幼稚園の終わりから高校卒業までを、広島県福山市で過ごした。
降雨に乏しいこの土地は、灌漑用のため池や用水路が遍在していた。自分が住んでいた市の東部では、手城川という二級河川と繋がって水系を成していた。
手城川水系は、ため池や用水路といった水環境として、日々何気なく親しんでいた。
手城川の源流で、周囲が公園として整備されている春日池(写真2)。池に架けられた朱色のアーチ橋と、ほとりで咲き乱れる紫色の菖蒲。
道路脇を流れる、柵のない用水路*2。コンクリートの護岸にこびりついている、ジャンボタニシのピンク色の卵塊。
当時住んでいた社宅の近くにあり、江戸時代に福山平野が干拓されるまでは入り江だった谷地池(写真3)。干上がった池のほとりを散策して残した足跡。
今は埋め立てられて宅地になってしまった、小さなため池。近くの畑から肥溜めの臭いが漂ってくる中で、木の枝で作った釣竿で釣り上げたブルーギル。
思い返せば、自分がため池や用水路、暗渠への関心を強めたのは、手城川水系の影響だったのだろう。
そして、福山市の河川を語る上で、芦田川の存在は避けて通れない。
従来の水量の乏しさや、戦後急速に進んだ都市化に伴い、中国地方屈指の水質の悪さを誇る一級河川である。
電車通学をしていた中学生の時に、毎日芦田川の上を通り抜けていた。車窓からは中州が目立つ川の流れが見えた。川底には、中世の港町―草戸千軒町遺跡―が眠っている。福山市の小学生は皆そう教えられる。
ただ、市の中央部を南北に流れる芦田川は、自分にとっては手城川水系ほど馴染みのある川ではなく、あくまで市のシンボルのような存在だった。
猪名川・箕面川・千里川
河川への愛着を意識するようになったのは、大学生の時だった。
大学への進学を機に、大阪府豊中市へ移り住んだ。豊中市は兵庫県に隣接しており、府県境付近には猪名川が流れ、支流として箕面川や千里川が接続していた。
大阪屈指の風光明媚な観光地として知られる箕面滝。滝の水は箕面川となって南西方向へ下っていき、府県境を越えて兵庫県伊丹市で猪名川に合流する。この地点こそ、河川との接触を深めた場所だった(地図1)。
この辺りは江戸時代には西国街道が通っており、当時の人々は川を渡し舟ではなく徒歩で往来したという。それだけ水深が浅かったのだろう。
現代でもその様子は変わらず、猪名川と箕面川の合流地点は、水がほとんど伏流してしまい、河原石だらけの水無川となっていた(写真4)。
猪名川の堤防沿いを通る道は、箕面川に橋を架けるのではなく、歩いて渡るよう促していた。普段は水が流れていないので問題なく通行できるが、増水すると渡れなくなってしまう(写真5)。
伊丹空港(大阪国際空港)の存在が、この場所をさらに特異にしていた。猪名川と箕面川の合流地点は空港の滑走路に隣接しており、次々と離陸する飛行機を眺めることができた。
涸れ川の真ん中に立ち、日本のどこかへ旅立っていく飛行機を見上げる。その瞬間が愛おしかった(写真6)。
猪名川の周囲に広がる景観も、見ていて飽きない。
河川敷から北側の池田市や川西市の山際を眺めると、人々の営みを体感できた(写真7)。
池田市の五月山に上って大阪平野を見下ろすと、猪名川の雄大な流れが一望できた(写真8)。
大阪時代に印象に残ったもう一つの河川として、千里川が挙げられる。
千里川は、箕面川よりも下流で猪名川と接続している。川の規模や流域の雰囲気は箕面川とよく似ていた。
この川も幾度となく訪れた。河川沿いの小道を自転車で通って、自動車教習所やイオンモール*3へ向かった日々が思い出される。
千里川沿いは近頃、伊丹空港に着陸する飛行機を間近で観察できる場所として人気となっている(写真9)。
千里川の土手からの眺めも素晴らしいが、個人的には、先述した猪名川と箕面川の合流地点の方が好みだった。
ある日、千里川の源流を探しに、箕面市北部の北摂山系へ足を踏み入れたことがある。
みのおキューズモールの北側から山道に入っていく。道沿いを流れる千里川は徐々に細くなっていき、終いには小さな谷筋となった(写真10)。
道中、鹿の群れに出くわした。源流の一つと思われる峠に辿り着くと、箕面川の上流に位置する箕面ダムが遠くの方に見えた。街中を流れる川の知られざる一面に出くわして、気分が高揚した。
猪名川、箕面川、千里川の光景は、自分が臨終の際に走馬灯のように脳内に映し出されるに違いない。猪名川が三途の川になれば、これ以上の至福はないだろう。
それだけ思い出深い河川だった。
箕面川と猪名川の合流地点に何度でも来てしまう
— 坂津 (@tabunsakatsu) 2016年12月25日
河川が伏流している砂礫の上をしっかりと踏みしめて歩いてしまう
音を轟かせて伊丹空港を飛び立つ飛行機の航路を目で追ってしまう
手頃な大きさの石を拾い上げて水切りをしたり投擲をしたりしてしまう
滑走路の灯りを眺めていると心が揺れてしまう pic.twitter.com/ZVYJyumLpn
太田川
就職をきっかけに、広島市に引っ越した。広島は子供時代の大半を過ごした地だが、福山市を中心とした県東部しか馴染みがなく、広島市を含めた県西部は数えるほどしか訪れたことがなかった。何なら隣県の岡山の方が親近感があった。
そこで、馴染みの薄い街を住みこなすにあたり、休日に街中の散策を始めた。
広島平野には太田川が分流しており、その間に複数の三角州が形成されている(地図2)。河川沿いに整備された道は散策に適しており、徒歩や自転車、はたまた一輪車で、広島市を体感していった。
(地図2)広島平野と太田川。
川と桜と一輪車 pic.twitter.com/sUFcW7iyHQ
— 坂津 (@tabunsakatsu) 2020年4月5日
広島市内のあちこちに川が流れていて、川沿いは遊歩道や公園として整備されていた。その最たる例は、平和記念公園や原爆ドームの周辺だろう(写真11)。
人々が川沿いでランニングしたり、談笑したり、遊んだりする姿は日常に溶け込んでいた。
ある日、川沿いの道を自転車で進んでいると、本川(旧太田川)と太田川放水路の分岐点に辿り着いた(写真12)。夕暮れ時で、平野を取り囲む山の端は紅に染まりつつあった。
初めて見た景色のはずなのに、妙に懐かしい。脳内のフォルダを漁っていくと、すぐに答えが見つかった。猪名川の景色に似ている。池田市と川西市の間を抜けて、平野部に至った辺りの猪名川の景色が重なって見えた。そのことが不思議と嬉しくて、目頭が熱くなった。川を通じて、大阪と広島が繋がっているように思えた。
太田川が本川(旧太田川)と放水路に分岐する地点の景観が、池田市と川西市の間を流れる平野部に出てきた辺りの猪名川を彷彿とさせて感涙しそうになった pic.twitter.com/DdU6jxqTe8
— 坂津 (@tabunsakatsu) 2020年4月5日
これまでの人生を振り返ってみると、様々な川とふれあって生きてきた。それらは、自分にとってトポフィリア(場所愛)の表出だった。
これからの人生も、川の流れる街で生きていきたい。
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*1:当時は特定外来生物被害防止法の施行前だったが、好ましい行為ではない。
*2:福山市では人が用水路に転落して怪我をしたり、時には命を落とす事故が後を絶たない。 www.chugoku-np.co.jp
*3:はてな匿名ダイアリーで「イオンモール伊丹」を取り上げた記事がある。その中で、箕面川(川1)と猪名川(川2)に言及されており、これらの河川に対して似たような感情を抱いている人が他にもいると知って親近感が湧いたことがある。執筆者は恐らく阪大生だろう。anond.hatelabo.jp