はじめに
2022年1月12日、とあるニュースが報じられた。
――高槻やよいが、大阪府高槻市の「たかつき観光大使」に就任。
高槻やよいは、アイドルプロデュースゲーム「アイドルマスター(通称「アイマス」)」に登場するキャラクターの一人。
自治体名とキャラクターの名字が偶然一致したことから、高槻市は、やよいの非公式的な聖地として長らく扱われていた*1が、この度正式なコラボレーションが実現したのである。
このニュースが報じられた当初は、単にめでたい出来事だと思っていたのだが、ニュースに寄せられたとあるコメントを見て認識を改めた。
やよいが着ている服が古墳柄
確かに、オレンジ色を基調とした私服*2でも、アイドル活動中の華やかな衣装でもない、観光大使就任のために新規で描き下ろされた、古墳の柄の服だった(画像1)。貫頭衣を彷彿とさせるワンピースは、やよいの明るい雰囲気と調和しており、見る者に違和感を抱かせない。
しかし何故、やよいは古墳――数ある古墳の中でも、鍵穴のような形状の前方後円墳――柄の衣服を着ているのだろうか。
考えられる理由は一つ、高槻市には「今城塚古墳」という有名な前方後円墳が存在するからだ。
今城塚古墳から出土した武人埴輪がモデルとなっている、高槻市のゆるキャラ「はにたん」(写真1)のポシェットを併せて身に付けていることも、その推測を裏付けている。
個人的な事情になるが、ここ数年古墳の魅力に取り憑かれており古墳に対する感度が高まっていたので、このニュースにも注目せざるを得なかった。
ただ、サブカルによる地域振興のために、地域の名跡である古墳をモチーフにした衣服をキャラクターに着せたというだけのことであれば、取り立てて言及する程の話ではなかったかもしれない。
しかし、この衣服をよく観察してみると、古墳に対してかなり注意が払われている様子が読み取れる。単に鍵穴状の模様を衣服にプリントしたのではなく、確固たる信念に基づいて前方後円墳があしらわれているのである。
どうしてそこまで言えるのか。ポイントは2点に大別される*3。
①前方部と後円部の間のくびれ部に造出(つくりだし)が設けられている。
②(後円部と比較して)前方部が相対的に大きい古墳時代後期の前方後円墳の特徴が反映されている。
そこで本記事では、今城塚古墳について概説した上で、衣装に表出している各種要素を見ていくことで、前方後円墳の諸特徴について掘り下げたい。
目次
今城塚古墳とは
今城塚古墳とは、高槻市郡家新町に位置する、墳丘長190メートル、周濠(墳丘の周囲を取り巻く堀)を含めた総長は350メートルを測る*4、大型の前方後円墳である(図1)。
(図1)今城塚古墳を示した地図(グーグルマップ)。
大規模古墳の例に漏れず、地平から観察した限りでは小山のように感じられる(写真2)。
ただ、墳丘の大きさという観点で見れば、大阪府堺市の大山古墳(大仙陵古墳、仁徳天皇陵古墳)を筆頭に、他にも数多くの大規模古墳が存在する*5。
では、観光大使の衣装に採用される程の特異性は、果たしてどこにあるのだろうか。
実は、出土する埴輪の編年や墳丘の形状(後述)から推察される築造時期、古事記、日本書紀、延喜式(諸陵式)といった史料に記述される所在地から判断して、今城塚古墳は継体天皇*6の真陵と目されているのである。
また、関西地方の大型古墳は、宮内庁によって天皇陵や陵墓参考地に治定されており*7墳丘内への立ち入りが認められていない場合が多いが、今城塚古墳は宮内庁の管轄外であり高槻市によって史跡公園として整備されているため自由に散策可能である。
上述したように、被葬者がかなりの確度で想定されている上に、関西地方の大規模前方後円墳としては珍しく立ち入りに制約がないという点で、今城塚古墳は特異的と言えるのである。
他にも、祭祀のために使用された大量の埴輪や、阿蘇ピンク石(熊本県宇土市で算出する凝灰岩の一種)を使用した石棺、ヤマト政権の大王墓としては最初期の事例となる横穴式石室の採用など、特筆すべき要素は多々あるのだが、そろそろ古墳柄衣装に関連した話に移行しよう。
造出とは
造出(造り出し、つくりだし)とは、前方部と後円部の間のくびれ部にある張り出した部分のことであり、ここで祭祀が行われていたと考えられている。
先程概説した今城塚古墳にも設けられており、案内板で示されている⑥北造出と⑦南造出が該当する(写真3)。
やよいの古墳柄衣装をよく観察すると、たすきで隠されていて見えにくいが、前方後円墳の双方のくびれ部に造出が描かれている(画像2)。
日本全国で4600基あるとされる前方後円墳のうち、造出のあるものは100基程度しか確認されていないという*8。
全国的に見れば希少ながら、今城塚古墳に採用された造出。それが衣装にきちんと反映されている点に、意匠の巧みさを窺うことができる。
古墳時代後期の前方後円墳の墳丘の特徴とは
3世紀中頃から7世紀初頭にかけて築造されてきた前方後円墳は、時代が下るにつれて、前方部が相対的に巨大化していった(図2)。
(図2)では、古墳時代前期の例として箸墓古墳(奈良県桜井市、3世紀後半)、中期の例として大山古墳(大阪府堺市、5世紀前半)、後期の例として五条野丸山古墳(奈良県橿原市、6世紀後半)を取り上げた。
箸墓古墳では前方部が後円部に付随する形状だが、大山古墳では前方部の大きさが後円部に匹敵しており、五条野丸山古墳では前方部が後円部を凌駕するまでに巨大化している。
古墳時代後期の6世紀前半に築造された今城塚古墳も、五条野丸山古墳程ではないものの、後円部と比較して前方部が発達している(図3)。
さて、やよいの衣装を観察してみると、前方部の方が後円部よりも巨大であることは一目瞭然である(画像3)。
古墳時代後期の前方後円墳の特徴が端的に示されており、この点からも、芸の細かさを窺うことができる*10。
おわりに
朝日新聞の記事(2022年1月12日付)によれば、歴代の女性観光大使もやよいと同様の衣装を着用していたとのことであり*11、古墳柄衣装のディレクションは高槻市側によるものと見なして差し支えないだろう。
これまで見てきたように、高槻市の古墳に対するこだわりの強さが、衣装一つを取ってみても存分に感じられたのではないだろうか。
ちなみに高槻市には、弥生時代の遺跡である「安満遺跡」が存在する。
高槻市と高槻やよいは、考古学的に惹かれ合う運命だったのかもしれない。
※もしよろしければ、下の「サポート」から支援いただけると今後の励みになります。
*1:一例として、高槻やよいの誕生日(3月25日)に、やよい軒高槻店にアイマスファン(通称P(プロデューサー))が自然と集結する現象が挙げられる。
今日は一年に一度 やよい軒高槻店が盛り上がる日
*3:本記事で詳述する内容は下記のツイートに集約されているが、TwitterなどのSNSは検索性に乏しく後からの振り返りが困難であるため、ブログという形式で記録を残しておいた。
高槻やよいの古墳の衣装、造出を備えているだけじゃなくて、後円部と比較して前方部が相対的に大きい古墳時代後期の前方後円墳(例: 高槻市の今城塚古墳)の特徴を反映していて本当に芸が細かい https://t.co/R98ddK4Cxk
*4:森田克行 2003. 今城塚古墳の調査成果. 日本考古学 10(15): 139-148.
*5:堺市がウェブサイト上で公表している「古墳大きさランキング(日本全国版、2019年11月14日更新)」では、今城塚古墳は40位以内に入っていない。実際の順位としては50位程度であろうと思われる。なお、6世紀前半に築造された古墳の中では、今城塚古墳は最大級の規模を誇っている。同時代に築造された岩戸山古墳(福岡県八女市)や断夫山古墳(愛知県名古屋市)も墳丘長が100メートルを超える大型の古墳だが、今城塚古墳には及ばない。
*6:継体天皇(ヲホド)は、5世紀後半から6世紀前半にかけて実在したと考えられている大王。
*7:宮内庁は(実在性が疑われている天皇も含めて)歴代天皇の陵墓を治定している。2022年現在、継体天皇陵(三嶋藍野陵)として治定されているのは、茨木市(高槻市に隣接)の太田茶臼山古墳であり、今城塚古墳の西方1.3キロメートルに所在している。
*8:沼澤豊 2006. 『前方後円墳と帆立貝古墳』 296-300. 雄山閣.
*9:釜井俊孝・寒川旭・守隨治雄 2008. 1596年慶長伏見地震による古墳の地すべり. 応用地質 48(6): 285-298.
*10:後円部が大きくなると衣装のシルエットが崩れてしまうため、反対に前方部が大きくなるよう作用したのだと解釈することも可能ではあるが……。
*11:一例を挙げると、ロックバンド「ヤバイTシャツ屋さん」のしばたありぼぼが該当する。詳細は「たかつき観光大使に「ヤバイTシャツ屋さん」しばたありぼぼさん、「夜の本気ダンス」マイケルさんが就任しました。 | 観光協会からのお知らせ | 高槻市観光協会公式サイト たかつきマルマルナビ」を参照。