たぶん大丈夫なブログ

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再訪「石澄滝」 ――新たな知見と共に

以前(2015年秋)、大阪府池田市箕面市の間を流れる石澄川、その上流に位置する石澄滝(いしずみたき)についての記事を執筆したことがある。

今回(2016年晩秋)、再度石澄の滝を訪れる機会があり、新たな知見を得てきたのでここに紹介したい。
「一心寺」とは? 道中いくつも存在する廃屋は何だったのか? 「白瀧大神」とは? 「平田龍昇」師とは? 前回は明らかに出来なかった数々に対して、現時点での答えを示す。


※以前書いた二本の記事(秘境「石澄の滝」探訪①秘境「石澄の滝」探訪②)は読まなくても本記事の概要は分かりますが、前述の記事の内容を把握した上で読み進めるとより楽しめるかもしれません。



目次





石澄滝の概要

石澄滝はどこにあるのか? 冒頭の説明の繰り返しになるが、大阪府池田市箕面市の間に位置する滝である(図1)。前掲の二記事では「石澄の滝(いしずみのたき)」と呼称していたが、本記事ではネットや観光マップ等で多く見受けられる「石澄滝」の呼称に統一したい。


(図1)石澄滝の位置。北摂山系の前線、大阪平野の限界に位置すると言えよう。


滝の下流は石澄川という河川が流れており、流路は池田市箕面市の境界線に概ね沿っている。市境は石澄川に沿って引かれたのであろう。石澄川は北摂山系を抜けて大阪平野に出た後、そのままほぼ南下を続け箕面市瀬川で箕面川と合流する。

Wikipediaの説明によると、石澄滝の落差は25メートル程度とのことであり、なかなか立派な滝である。それにも関わらず知名度が今一つなのは、すぐ北東に名勝である箕面滝(箕面大滝とも言う)が位置しており、滝に至るまでの山道が整備されており観光地としての魅力も分かりやすいそちらへ観光客が流れてしまうからなのかもしれない。


それでは、石澄滝とそこへ至るまでの道中を、今回得られた新たな知見と共に記していこう。

白瀧大神と平田龍昇師之碑

以前執筆した記事でも触れたが、石澄滝に至る道中の入り口近くに地蔵が並んだ御堂があり、周囲には完全に倒壊した木造家屋「平田龍昇師之碑」と刻まれた石碑がある(写真1、2)。

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(写真1)完全に倒壊した木造家屋。今回は写真を撮らなかったため、以前ブログに掲載した写真と同じものを使用。


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(写真2)。「平田龍昇師之碑」と刻まれた石碑。今回は写真を撮らなかったため、以前ブログに掲載した写真と同じものを使用。ちなみにこの写真は前回同行した友人が撮影したもの。自分が撮った写真は手ブレが酷く、使い物にならなかった。


以前に石澄滝を訪れた時点では、これらの正体・由来についてある程度検討はついていたものの、決定的な証拠はなかった。しかし今回は裏付けを得ることができた。

まず、倒壊家屋(写真1)について述べよう。これは神社の倒壊跡である。
何故そう言えるのか。今回同行した人の中に一人神社の建築様式に詳しい方がおり、この廃屋は「流造(ながれづくり)」であると見抜いたのだ。流造とは神社によく用いられる様式であり、この廃屋も倒壊する以前は流造であったと推察されるという(流造の詳細についてはWikipediaの記事を参照)。
二つ目の記事の追記にてゼンリンの住宅地図を参照した際、この廃屋がかつて建っていた場所に鳥居の地図記号が載せられており、「白瀧大神」なる文字が添えられていたことを確認した。その裏付けが取れたことになる。また、「大阪府池田市の個人的郷土研究サイト『呉江舎』/池田の観光(池田再発見)」によると、「白瀧大神」はかつて修験者の行場になっていたと記されている。
ちなみに、「白瀧大神」と呼ばれる神社は大阪市内にもいくらか存在しており、名前は白蛇に由来するという(詳しくは 中崎町の「白龍大神」に見るミイサン伝説 | 大阪市の北区をグルグル巡るブログ鳥居をくぐって白瀧大神 などの記事を参照)。

次に、「平田龍昇師之碑」と刻まれた石碑について。これの由来については、本記事を執筆する数日前に更新された「石澄滝への道を拓いた平田龍昇師の石碑… - 日本沿岸旅行記」の記事において記されていた。この平田龍昇なる御方は石澄滝への道を拓いた人物とのことである。

……どちらも判明してしまうと「あぁ、そういうことか」とあっさり納得する程度の小さな謎ではある。ただ、情報が乏しい中で証拠が一筋の光となって差し込むのは快感、達成感を伴う。
そして解明された謎はさらなる謎を呼ぶ。「白瀧大神」なる神社はどのような所縁で建造され、いつ頃忘れ去られ、荒廃していったのか。「平田龍昇」師は石澄滝に縁のある人物とのことだが、結局どのような人物だったのか。つまるところ、何ら謎は解明されていないことに等しいのかもしれない。

丸太橋

さて、先程紹介した場所のすぐ先にはとんでもない物が待ち構えている。丸太橋である(写真3)。

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(写真3)2016年11月現在の丸太橋。


以前と変わらぬ姿で我々を出迎えてくれた……と言いたいところだが、どこか違う。
そう、丸太の横に竹竿が渡されているのだ(写真4)。

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(写真4)逆から見た丸太橋。


何故こんなことがしてあるのか。恐らく、手すりとしての使用が想定されているのだろう。丸太橋だけでは平均台のように落下しないよう慎重に渡らねばならない。しかし手すりが備え付けられていることで、はるかに安全に渡ることができる。実際、端から端まで渡りきるのに10秒もかからなかった。

では一体誰が竹竿を設置したのか。これに対する明確な答えはないものの、箕面の山パトロール隊などの地域の山歩きサークルや有志により設置されたのだと想像がつく(箕面の山パトロールについては 2016.06.27 才川コースの整備 | 箕面の山パトロール隊ブログ を参照。「石澄の滝コースも3か年計画で整備を進めていきます」と書いてあり、これまでも石澄滝への道中を何度か整備していたと推察される)。
こんなに荒れ果てた山道でも、誰かの心掛けにより少しずつではあるが整備されているのだ。

余談にはなるが、石澄滝の滝壺へあと少しという段階の道中にはロープが張り巡らされており、滑落しないための助けになっている(秘境「石澄の滝」探訪②でも取り上げたような垂直方向にぶら下げられたロープではなく、水平方向に張られたロープであった)。石澄滝が行政から見放されているように思われる現状を鑑みると、こうしたロープも山歩きサークルなどの手入れによって維持、管理されている可能性が高い。

謎の石碑と石柱

安全度が向上した丸太橋を渡り終え、右手側を流れる石澄川を見ていると何やら気になる物を発見した。

狭い川幅となった石澄川の対岸に、石碑のような物と、石碑よりも小さい石柱のような物が見える。(写真5、6)。しかし山道から見下ろす形では、どちらも一体何なのかよく分からない状態だ。

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(写真5)石碑、のような物。


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(写真6)石柱、のような物。


山道に何かヒントになる物はないかと見渡してみる。すると、壊れかけた、というより完全に壊れた門を発見した(写真7)。門の先に延びる道は、どうやら川の方へと下っている。

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(写真7)壊れかけた、というより完全に壊れた門。鉄柱は錆びきっていることから、長い間風雪に晒されていたことが推察される。かつては侵入者を阻んでいたのだろうか。


実際に道を下って川を跨いでみると、石碑と石柱のそばまで到達することができた。先に到達した石碑を観察する(写真8)。

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(写真8)謎の石碑。立派な岩である。


……正直、何が何だか分からない。文字が一つも刻まれていない。裏側に何かヒントになるような物はないか探してみたが、表側とさして変わりはなかった。
そもそも石碑のように見えるこれはただの天然石であり、単に錯覚してしまった説が頭によぎったが、台座をわざわざコンクリートブロックで拵えている辺りそれは考えにくい。
元々書かれていた文字が削り取られたり、墨で書いた文字が風雪によって消えてしまったりということも考えられたが、この石碑(?)には平面の部分が見られないためその可能性は高くなさそうである。つまり元から文字などなかったということだ。

考えれば考えるほど謎が謎を呼ぶ石碑。残念ながら、これについては何も判明しなかった。


謎の石碑の少し上には、謎の石柱がある。これにはしっかりと文字が刻み込まれていた(写真9)。

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(写真9)謎の石柱。「大聖北斗七元星君」と文字が刻み込まれている。


石柱に刻まれた「大聖北斗七元星君」とは一体何なのか。これについては情報がある。
まず上記の文字をグーグル検索してみる。すると、中国語表記のサイトが多く引っかかる(こちらがその検索結果)。

これには訳がある。恐らく、「大聖北斗七元星君」は北斗星君」のことだからだ。「北斗星君」とはWikipediaの記述によると、「中国において、北斗七星が道教思想によって神格化されたもの」だという。だから中国語のサイトが多くヒットしたのだろう。また、Wikipediaの続きを読んでいくと、北斗星君は「『死』を司っており、死んだ人間の生前の行いを調べて、地獄での行き先を決定するという、日本でいう所の閻魔のような役目を持つ」と書かれている。上記の内容から、この石柱は道教や北斗七星・北斗星君に関連する何らかの宗教的意味合いを持つものであることが分かる。

また、後の「一心寺」に関する話題の中でも詳しく紹介するが、石澄滝に程近い宝塚市にある最明寺滝を取り上げた記事内(第21回 味わい深い異形の薬師如来と仏像群 ~ 満願寺(川西): ほっとけハイク見聞記を参照)に、この「大聖北斗七元星君」に関連する記述がある。正確に言うと、その記事そのものではなく、その記事内で取り上げられている「在日韓国・朝鮮人のシャマニズムとその継承」という報告書内にその記述が見られる(http://www.isc.senshu-u.ac.jp/~thb0309/IbunkaRikai/Hokyoji.pdfを参照、リンク先はPDFファイル)。
この報告書によると、韓国・朝鮮寺には「七星堂や七星神・山神・海神をまつる三神閣」が置かれているのが普通であり、7月7日には七星祭りが年中行事の一環として行われるという。

いずれにしても、(写真9)が国際情緒豊かな宗教的モニュメントであることに変わりはないだろう。

不動明王

また、これらの近くからは小さな不動明王像も見つかった(写真10)。

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(写真10)不動明王の石像。


実は、石澄滝に至る道中には他にも不動明王像が見つかっている。何故不動明王像が沢山安置されているのか。それは、滝と不動明王は切っても切れない関係にあるからだ。

m.chiebukuro.yahoo.co.jp
珍しくYahoo!知恵袋が役立った……(今回の場合、引用元のブログが削除されていただけに尚更)。


詳細は上記のリンク先に書いてあるが、要約すると『聖無動尊大威怒王秘密陀羅尼経』の一節「或入河水而作念誦(あるいはかすいにいってねんじゅをなし)」が滝行と不動明王を結びつける根拠になっているという(『聖無動尊大威怒王秘密陀羅尼経』の一節に関しては http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/shoumudou.htm を参照、一部改変した)。

先程少し紹介した最明寺滝にも不動明王像が多く置かれていたことからも、滝と不動明王の関係性を匂わせる。不動明王像については後にも取り上げたい。

一心寺

さて、今度はいよいよ「一心寺」の謎に切り込んでいこう。

一心寺とは何か。石澄滝に至る道中に佇む廃屋のことである(写真11)。

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(写真11)一心寺。三つ並ぶうちの中央の建物。


一心寺の概観については、以前書いた 秘境「石澄の滝」探訪① の記事に写真をいくつか掲載しているのでそちらを参照してほしい。
名前に「寺」と付いているが、一見ただの放置されて久しい古民家である。

この一心寺、何故か心霊・ホラースポットとして名前が知られている。一心寺が掲載されているサイトを二つ紹介しよう。
一つ目は、前回の記事でも取り上げた
『一心寺』 - 怖い話まとめブログ
このサイトでは、かつて一心寺を訪れた人が2005年に掲示板に書き込んだ内容がまとめられている。詳細についてはサイトを直接参照してほしいが、その書き込みの中に気になる一節がある。
「部屋の壁全体にまんべんなく敷き詰められてるんだ。オムツが。昼間の光も指す隙間が無いくらいまんべんなく。」
確かに異様な光景だ。そのせいで部屋全体には汚物のような異臭が漂っていたとも書かれている。

果たしてこれは真実なのか。今回、建物内に実際に立ち入るのは憚られたものの(心霊現象が恐ろしいとかそういう類ではなく倫理的配慮です、念のため)、何年にも渡り開けっ放しと思われる戸や窓から室内の様子を探ることができた(写真12)。

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(写真12)一心寺の中央の建物、内部の様子。


……(写真12)を見てもらえれば分かる通り、建物内の壁はベニヤ板のような薄い木の板である。決してオムツが敷き詰められているわけではない。もちろん、異臭も感じなかった。ただ、薄暗く近寄りがたい雰囲気は漂っていた。
当然、2005年以前には本当に壁一面にオムツが敷き詰められていた可能性も考えられるが、(写真12)の奥の壁にコンセントらしきものが見えることから、そのコンセントまでオムツで覆い隠してしまうというのは考えにくいだろう。

ちなみに、上記のサイトには、このブログを閲覧したと思われる2016年09月30日付のコメントが書き込まれていた。そこに気になる記述が見られる。
「他所のサイトでは、廃屋の中へ入った人の体験談があって、ハングル?で書かれた文書があった」

……ハングルで書かれた文書。この書き込みが気になり他のサイトを検索したところ、無事ヒットした。次がその二つ目のサイト、
【大阪府】石澄の滝までの道中の廃墟群 - 心霊スポット
である。
このサイトにアップロードされている画像が(写真13)である(リンク切れの場合、上記のサイトを直接参照してほしい)。

http://ghostmap.net/img/review/20160826123940093.jpg
(写真13)ハングルで書かれた文書。経典のように見える。


確かにハングルで書かれた、仏教の経典のような文書だ。今回の探訪では見つけられなかったことから、建物の内部にあったのか、他のものに埋もれてしまったのか、はたまた持ち去られたのかしたのだろう。
(写真13)のアップロード者は書き込みもしており、「そのほかにも不気味なスタンプが前ページに押されたメモ帳などが散らばっていました。」と述べている。メモ帳は見つけられなかったものの、スタンプ本体は屋外に打ち捨てられた机の上で発見した(写真14、15)。

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(写真14)スタンプのようなもの。


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(写真15)スタンプのようなものを発見した机(中央左)と、その背後に見える一心寺の建物。中央右のコンクリートブロックは井戸のように見える。


恐らく(写真14)のスタンプがメモ帳に押されていたのではなかろうか。中段の印字をよく見てみると、「来王力(逆から読んで「力王来」かもしれないが)と書かれているように見える。しかし、これが一体何を指すのかは分からなかった。

ここまでつらつらと駄文を乗せていたのは他でもない、一心寺の正体に迫るためだ。幸い、これまでの情報で一心寺が何であるのかはおおよそ検討がついた。

石澄滝の一心寺とは「韓国・朝鮮寺」の一つではなかろうか。

直接的な根拠としては、①ハングルで書かれた文書が一心寺に置かれていたことが挙げられよう。
他の論拠としては、②韓国・朝鮮寺は普通イメージする寺院とは異なり、一般的な民家と大差ない佇まいをしているが、一心寺もそれに該当すること(詳しくは「大聖北斗七元星君」の項で取り上げたPDFファイル、もしくはWikipediaの朝鮮寺の項目を参照)、③韓国・朝鮮寺では七星堂が置かれたり七星神が祭られたりしているが、一心寺に至る道中にも「大聖北斗七元星君」の名を刻んだ石柱が置かれていたことが挙げられる。
また、Wikipediaの朝鮮寺の項目を読むと、「境内には地形を利用して祠や行場としての滝などが併設されている場合が多い。それらの多くおよび本堂などには不動明王が祭られている」と書かれていることから、④韓国・朝鮮寺の境内の特徴と同様に、一心寺は石澄滝の道中に位置しており、その道中には不動明王が多く祭られていることも根拠に加え入れられるだろう。

更なる根拠も紹介したい。(写真11)の一心寺中央の建物の右には、一見普通の小屋が存在する(写真16)。この小屋の内部は、まさに寺院のような雰囲気であったのだ(写真17)。

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(写真16)一心寺、右の小屋。一見ただの小屋のようだが、実際には御堂なのだろう。


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(写真17)一心寺の右の小屋内部。寺院のような内装をしている。


(写真16)では一見普通の小屋だが、その建物内は(写真17)のように寺院のような内装が施されている。
⑤一心寺には、外装的には普通の小屋だが、内装は寺院のような建物が存在すること、これが五つ目の根拠となる。

上記の理由から、一心寺は元来は韓国・朝鮮寺であり、それが長い間忘れ去られて廃墟になり、それが発展して心霊・ホラースポットとなってしまったと考えるのが妥当だろう。
それを踏まえると、過去記事で可能性は低いとしながらも紹介した、天王寺にある有名な方の一心寺と繋がりがあるとする説は考えにくい。

上述の報告書「在日韓国・朝鮮人のシャマニズムとその継承」によれば、大阪と奈良の狭間に位置する生駒山地にはとりわけ韓国・朝鮮寺が位置しているという。また、石澄の滝からも近い兵庫県宝塚市の最明寺滝には不動明王像が多く安置されており、滝に近接する宝教寺も韓国・朝鮮寺の一つであるという。
大阪平野縁辺部の山地。そして滝。一心寺も同じように、韓国・朝鮮寺が立地しやすい環境下にある。

長くなってしまったが、以上が一心寺の正体に対する個人的見解だ。

なお、完全に余談ではあるが、一心寺にはコンセントらしきものや電気メーターがあることから電気が通っているようだ(写真18)。

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(写真18)一心寺中央の建物の電気メーター。当然ではあるが関西電力の管轄だった。


夜の間、一心寺に光が灯ることはあるのだろうか……。


……これで本記事を締めくくってしまっても良さそうな文章の流れだったが、これはあくまで石澄滝の記事。滝のふもとに辿り着くまでは文章を書き連ねていこう。

迂回路とショートカット

石澄滝の道中は荒れ果てており、本来の道と獣道の区別がつかなくなっていることが多い。前回石澄滝を訪れる際に大いに参考にさせてもらった 【池田市】石澄の滝(へ行きたかった) - 路面と勾配 f/k/a 北摂ひっそり の記事でも、青色の案内板がある時点で道に迷われたようであった(写真19)。

http://blog-imgs-65.fc2.com/n/e/k/nekotani/_izntk42.jpg
(写真19)石澄滝の道中にある案内板。リンクが切れている場合は、上記のブログを直接参照してほしい。


前回の石澄滝探訪と、今回の上りではこの案内板に従わず、偽石澄滝(石澄小滝)と間歩の近くを通る迂回路を採用した(これらについては秘境「石澄の滝」探訪②を参照)。
実は今回、下りはこの案内板の経路に従ったところ、スムーズに進むことができた。一体どういうことなのか。

これは、夏季は草木が生い茂るため道も失せてしまうが、冬季は草木が枯れるので道が比較的明瞭になり歩きやすくなるからだと考えられる。

同じような現象はもう少し道を進んだ先にも起こる。残念ながら今回写真を撮ることができなかったが、道中にとなりのトトロに出てくるような草のトンネルがある(他の方が撮影した写真は EOブログ: 石澄の滝~ようらく台~箕面ダム周回石澄ノ滝・六個山・箕面大滝 などのサイトに上げられている。気になる場合はそちらを参照)。前回と今回の上りでは迂回したのだが、下りはトンネルを潜ったところスムーズに進むことができた。
これも理由は同じである。前回の探訪時のような、夏の終わりとはいえ草木も依然と生い茂る時期ではトンネルを潜り抜けるのは一苦労だが、今回のように晩秋であれば草木も多くは枯れ果てて、トンネルが本来の姿に戻るのだ。

上記の二つのルートの通行は、草木の枯れる冬場であれば大いに推奨できよう。


さて、石澄の滝まで残すところ僅か。しかしまだ道中の廃屋は二軒も残っている。それらを新たに得られた知見と共に順に紹介していこう。

二つ目の廃屋

二つ目の廃屋は、まるでキャンプ場のログハウスである(写真20)。

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(写真20)二つ目の廃屋。見た目的にはログハウス。今回は写真を撮らなかったため、以前ブログに掲載した写真と同じものを使用。


その内部がこちらである(写真21)。

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(写真21)二つ目の廃屋の内部。


かなりのあばら家だ。一心寺の薄暗い雰囲気とは異なり、骨組みだけとなった天井から光が差している。元々の造りが一心寺ほどはしっかりしていなかったのだろう。
二つ目の廃屋は、積み上げられた畳やその上に乗っかった鍋、スリッパなどの生活感溢れる物が散らかっている。廃屋のすぐ外にはキャンプで用いるようなプラスチック製のテーブルが置かれていた。

この廃屋は一体何なのか。個人的には、小屋の造りや遺留物から一心寺のような宗教施設とは異なり、レジャー関連の小屋なのではないかと思う。それこそ上で述べたような、キャンプ場のログハウスのような存在だ。ただ、それを裏付ける確証は見つからなかった。

ちなみに、前回確認した円形の石組みは健在だった(写真22)。

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(写真22)謎の円形の石組み。


ここで火でもくべてキャンプファイヤーでもするのだろうか。それとも井戸なのだろうか(ただ、落ち葉が中央の穴に溜まっているのを鑑みるに、その可能性は低そうではある)。

また、この石組みの近くには急ごしらえの焚き火跡が見つかった(写真23)。炭の残り方からして、また前回の探訪時にはこの焚き火を見なかったことからして、比較的最近焚き火をしたようである。

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(写真23)二つ目の廃屋近くの焚き火跡。何故か椅子がひっくり返されて置かれている。


二つ目の廃屋は、人が持つレジャー精神を呼び起させる力があるだろうか……。

三つ目の廃屋

二つ目の廃屋を過ぎ、沢を渡り終えると三つ目の廃屋が出現する。この廃屋は、この記事で紹介する廃屋の中では最も普通の民家に近い造りをしている(写真24)。

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(写真24)三つ目の廃屋とその内部。内部の様子が分かりやすいように明るめの写真を選択した。


部屋の周囲は縁側が取り囲んでおり、壁が剥がれたり床が抜け落ちたりしていなければなかなか立派な建物であったことを窺わせる(写真25)。手前には青色の立派な火鉢も見受けられる。

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(写真25)三つ目の廃屋の内部。縁側の造りや大きな火鉢を備えているなど、なかなか立派な家屋であることを窺わせる。


実はこの廃屋、奥に渡り廊下が伸びており、左に位置する離れに繋がっている。その離れを撮影したのが(写真26)だ。

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(写真26)三つ目の廃屋、離れの様子。明らかに寺院のような内装である。


寺院のような内装をした(写真26)を見るに、この離れは何らかの宗教施設だろう。手前には賽銭箱のような木箱も転がっていた(写真27)。

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(写真27)三つ目の廃屋の離れ前に転がっていた、賽銭箱のような木箱。

祠と石仏

この離れのすぐ近くには、木で組まれた小さな祠のような物も見られた(写真28)。

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(写真28)木組みの小さな祠。


かつては奥に石仏でも安置されていたのだろうか。しかし現在では木枠しか残っていない。当然、お供え物も見つからなかった。

そしてこの祠の隣には石仏が置かれていた(写真29)。素人判断だが、先程取り上げた不動明王の類ではなさそうだ(地蔵菩薩、つまりお地蔵さんか?)。

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(写真29)三つ目の廃屋の近くに安置されていた石仏。


……この石仏、どこか違和感を覚えないだろうか。周囲の廃墟と比較して、どことなく新しいのである。
石仏の裏側に回り込むと衝撃の事実が判明した。石仏が前後に並べて置かれているのだ(写真30)。

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(写真30)前後に並べて置かれた、あまり見ない形態の石仏。


手前の石仏の方が新しく、奥の方は年季が入っているように見える。縁の摩耗具合を見れば明らかだ。手前の石仏の縁は鋭利な刃物のように尖っているのに対し、奥の石仏は風雪に晒されたせいで縁がぼこぼこに欠けている。また衣装からして、これらの石仏は同系統であるように思われる。
これは一体どういうことなのだろう。何故、石仏を前後に並べて安置しているのだろう。
新しく石仏を安置することになったのなら、前から置かれていた石仏をどけないのだろうか。仏罰が当たるということで、古い方の石仏もそのまま安置しておいたのだろうか。それならわざわざ前後に並べることなく、横並びにすれば良いように思う。
……考えれば考えるほど謎が深まるばかりである。

三つ目の廃屋も、恐らく一心寺と同じような宗教関連施設だったのであろう。ただ一心寺とは異なり、韓国・朝鮮寺である確証は得られなかった。別系統の宗教なのかもしれない(とはいえ石仏が安置されていることから、仏教とは少なからず関わりがあるだろうが)。


三つ目の廃屋を抜ければ、まもなく石澄滝である。ただ、草のトンネルを抜けることができない夏場であれば沢伝いの経路を進まねばならず、ここがなかなかハードな道のりになるのだが……。

石澄滝

それでは満を持して登場、石澄滝である(写真31)。

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(写真31)石澄滝の光景。


今回が二度目の石澄滝であるが、やはり壮観だ。箕面大滝とは異なり周囲が全く整備されていない自然環境だというのも、滝の迫力を増すのに一役買っている。滝を取り囲む荒々しい岩肌や色付き始めた木々も彩りを添えている。
晩夏に訪れた前回と比べると、晩秋の今回は水量は少なめだ。それでも滝の迫力は感じられる。季節によって滝の水量が変わるのも魅力の一つである。
滝により近づいて撮影したのが(写真32)である。

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(写真32)石澄滝、近景。


縦方向に滝の写真を撮ると、それだけ迫力が増して見える。滝壺の周囲には落ち葉が集まっていた。
滝のふもとに目をやると、立派な不動明王像が置かれているのが分かる(写真33)。前々から存在は確認していたが、直接見るのは今回が初めてであった。

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(写真33)滝のふもとの不動明王像。


目を閉じた険しい表情からは、水は掛かっていないものの滝行をしている姿を連想させる。一心寺、もしくは三つ目の廃屋の関係者が安置したのだろうか。石澄滝の道中には少なくとも二体(二柱?)の不動明王像が置かれていることになる。


滝から少し離れた岩場で同行者と共に抹茶ケーキを食べ、一通り満足したところで下山準備に取り掛かる。
色付き始めた木々を眺めつつ、一歩ずつ下界へと降りていった(写真34)。

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(写真34)石澄滝道中の紅葉。紅く色付き始めた葉から光が透けており、太陽に透かして見た掌のようだ。



今回の石澄滝探訪で、前回は踏み込めなかった謎(特に一心寺などの廃屋関係)が明らかになった。それは喜びを伴う反面、一抹の寂しさを覚えたのも事実だ。
実地調査と文献調査(と言っても、今回はほとんどネット上の情報だったが)の両輪が大切であることを教えてくれる。
今後も郷土史や聞き取り調査を活用して、今回明らかにできなかった石澄滝の歴史的背景を探っていきたい。